橋なのに門、日本なのにオーストリア。竹生島の唐門から始まった約400年越しの答え合わせ

「橋なのに門、日本なのにオーストリア。」謎を追う楽しさが伝わるアイキャッチ 雑学

琵琶湖の日帰り旅を考えていたとき、旦那が見たいと言ったのが、竹生島にある唐門でした。

琵琶湖へ行くことになりました・初の日帰りロケハンはこちら

秀吉の大坂城にあった建物が、琵琶湖に残っているらしい。

それだけでも驚くのに、その手がかりになったのが、遠いオーストリアにある屏風だというのです。

「ちょっと待って。なんでオーストリア?」

調べ始めたら、今度は唐門の前身が「橋」だったという話まで出てきました。

橋なのに、門?

大坂城から京都へ行って、さらに竹生島へ?

疑問を書き出したら、11個になっていました。

橋なのに、門?一緒に調べるまさみとのあとアニめろ

※この記事は、竹生島への旅を計画する中で生まれた疑問を、宝厳寺・文化庁・関西大学などの公開資料で調べてまとめたものです。移築の動機や屏風の来歴には、現在も分かっていない部分があります。

旦那が見たかった門は、橋の一部だった?

竹生島の宝厳寺にある唐門。

「唐門」とは、唐破風という曲線のある屋根を持つ門のことだそうです。

黒い漆に、金色の飾り。彫刻には鮮やかな色が施されています。

この唐門につながると考えられているのが、豊臣時代の大坂城にあった「極楽橋」です。宝厳寺では、1596年に秀吉が架けた橋と紹介されています。竹生島の宝厳寺

私が「橋」と聞いて思い浮かべたのは、川や堀に架かった、渡るための道でした。

でも、極楽橋は屋根や豪華な装飾を備えた橋。

その正面の建築部分が、今の唐門と結びつくのだそうです。橋全体を小さな門に変えた、ということではありませんでした。

大坂城から京都へ。そして、なぜ竹生島へ?

宝厳寺が紹介している移築の流れは、

大坂城の極楽橋 → 京都・豊国廟の極楽門 → 竹生島・宝厳寺の唐門

というものです。

大坂城の極楽橋を京都へ移したことは『義演准后日記』に、豊国廟の極楽門を竹生島へ寄進したことは『舜旧記』に記述があるとされています。竹生島の宝厳寺

京都の豊国廟は、亡くなった秀吉をまつる場所。

秀吉ゆかりの豪華な建築が、秀吉をまつる場所へ移る。そこまでは、私にも流れがつかめます。

でも、次の疑問が残りました。

「せっかく京都に持ってきたのに、どうしてまた移したの?」

調べて分かったのは、移した記録があることと、移した理由が分かることは、別だということでした。

宝厳寺でも、寧々の関与や家康の政治的な意図などが説として紹介されています。けれど、動機を一つに決められるわけではありません。竹生島

竹生島には、秀吉や秀頼が復興を支援した背景があります。

ただ、「なぜ、この門を、この島へ」と選んだ最後の理由まで、私が読んだ資料からは分かりませんでした。
京都国立博物館の研究紀要

ここで私は、すぐに答えを一つにしたくなる自分に気づきました。

歴史には、記録が残っているところと、まだ想像するしかないところがある。

そこを混ぜないことも、調べるということなのですね。

「そもそも、誰が移したの?」も簡単ではなかった

建物を動かすのだから、誰かが命令したはず。

そう思ったのですが、ここも一人の名前では終わりません。

文化庁は、1603年に秀頼が片桐且元を奉行として移建したと説明しています。一方、1602年の日記には、『内府』(徳川家康)による竹生島への寄進を受け、極楽門の解体を始めたという記述があります。

寄進を決める人。

工事を進める人。

現地で建物を組み直す人。

「誰が?」という短い質問の中にも、いくつもの役割が隠れていました。

なお、文化庁の解説は、日記に記された極楽門と現在の唐門の関係について、慎重な表現を残しています。宝厳寺の紹介と、文化財の解説では、言い切り方にも違いがありました。文化庁

オーストリアの商人が描いた絵、ではありませんでした

屏風がオーストリアにあると聞いて、私は勝手に筋書きを作っていました。

昔の商人が日本へ来て、大坂の景色に感動する。

帰国してから旅の思い出を屏風に描き、国王に納める。

そんな話だと思っていたのです。

ところが、違いました。

『豊臣期大坂図屏風』は、日本で制作され、ヨーロッパへ渡った作品。オーストリアの貴族、エッゲンベルク家が所有していました。

誰が注文し、どのような経路で渡り、いつ購入されたのか。細かな来歴には、まだ分からない部分があります。サントリー文化財団

そして、もう一つ。

豊臣時代の大坂を描いた絵だからといって、豊臣時代に描かれたとは限らない。

研究では、描かれた景色の時代と、作品が作られた時代を分けて考えています。オーストリア政府観光局・研究者らの対談

屏風は、蔵の奥ではなく壁にあった

何百年も残った屏風。

現在の屏風は、8枚のパネルに分かれ、エッゲンベルク宮殿の「日本の間」の壁面にはめ込まれています。大阪市遺産研究センター

折り畳んで使う屏風が、遠い国では部屋の装飾になっていた。

橋が門になった話を追っていたら、屏風まで壁になっていました。

ものは残っていても、使われ方や、その意味を知る人は変わっていく。

そのことも、今回初めて実感しました。

オーストリアにも「これはなんぞや?」と思う人がいた

調査の始まりを想像したイラスト
※調査の始まりを想像したイラストです。人物・室内・屏風は実物の再現ではありません。

この屏風の修復と調査に取り組んだのが、学芸員のバルバラ・カイザー氏でした。

いつの時代の、どこを描いたものなのか。

調査の依頼は研究者へつながり、2006年、エームケ教授が写真を持って関西大学を訪れます。そこで、豊臣時代の大坂城と城下を描いた屏風だと確認され、共同研究へと進みました。大阪市遺産研究センター

目の前の絵が何なのか、知りたかった。

それを聞いて、思わずのあに言いました。

「オーストリアにも、私みたいな人がいたんだね。『これはなんぞや?』って気になる人ww」

もちろん、専門家の調査と私の疑問は規模が違います。

それでも、分からないものの前で立ち止まる気持ちには、少し親しみを感じました。

大坂城の証拠がなくても、国宝なの?

私には、もう一つ引っかかっていたことがありました。

「大坂城のものか分からなかったのに、どうして国宝なの?」

唐門は、大坂城との関係だけで価値が決まる建物ではありません。

文化庁は、その構造や装飾彫刻、金具などを、桃山時代の唐門として高く評価しています。文化庁

誰の持ち物だったのか。

どこから来たのか。

それも大切だけれど、目の前に残っている建物そのものにも価値がある。

有名な人の名前が付くから貴重なのではなく、建物をよく見て、その価値を確かめる。

旦那が見たがっている門を、私も少し違う目で見られる気がしました。

「修理できない」は、壊れたところを直せないという意味ではなかった

文化財の調査を想像したイラスト
※文化財の調査を想像したイラストです。実際の唐門の部材・作業風景を再現したものではありません。

国宝なのに、資料がなくて修理できなかった。

そう聞いたときは、不思議でした。

大切な建物なら、早く直した方がいいのでは?

でも、文化財の修理には、「どの時代の、どの姿を目指すのか」という問題がありました。

今回の修理では、建物に残った古い漆や顔料などを調査。移築時の状態を探り、残せる部分は保存しながら修復が行われ、2020年3月に完成しています。宝厳寺「保存事業」

屏風は重要な手がかりでした。

けれど、絵に似せて自由に塗り直したわけではありません。

建物に残るものを調べ、記録や絵と照らし合わせる。

今ある姿を守るためには、その前に「よく知る」必要があったのですね。

約400年越しの答え合わせを、見に行きたい

窓の向こうに旅先を思い描きながら、「次は本物を見に行こう」と話すまさみとのあとアニめろ

調べ終わって、頭に浮かんだのは、この三つでした。

「歴史」なのに、「今だからこそ」分かる。

「日本」の建物なのに、手がかりは「オーストリア」にある。

「橋」だったものの一部が、「門」として残っている。

屏風が残り、門が残り、古い日記も残っていた。

そして、それぞれを調べる人がつながった。

約400年前のもの同士が、今になって互いの素性を教えてくれたように感じます。

もちろん、すべての謎が解けたわけではありません。

なぜ移したのか。

誰が屏風を注文したのか。

どんな道を通って、海を渡ったのか。

分からないことも、まだ残っています。

それでも、竹生島へ行ったら、私はきっと門の前で立ち止まります。

「これ、橋だったんだって」

旦那にそう言いながら、屋根や彫刻を見上げると思います。

ただし、本物を見るのはこれから。

画面の中で追いかけた約400年の続きを、今度は自分の目で確かめたいです。

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